2013年6月10日月曜日

オランダらしい風景について

    オランダらしい風景とは何か。風車,運河,チューリップなど,いかにもオランダという風景が思い浮かぶはずです。ただ私にとってのオランダらしい風景は,地上にはなく空にあります。雲です。
   さわやかな青空と大海原。そのかなたにモクモクと湧き立つ積乱雲といった勇壮なものではありません。北海に面したオランダでは,海流のおかげで緯度のわりに温暖ですが,しょっちゅうにわか雨も降ります。そして,上のほうは白く柔らかそうなのに,下のほうは黒く,今にも泣き出しそうな雲がその気候の象徴となっています。それが私にとってはオランダらしい風景なのです。
  今回背景に使ったのは,2006年初夏に訪れたホールン(Hoorn)という港町の風景です。アムステルダムの北,列車で1時間ほどのところにあり,オランダ東インド会社(連合東インド会社:VOC)の拠点のひとつでした。ここから多くの船が東インドに向けて出航して行きましたが,旅立つものは寂しそうに,帰ってきたものは懐かしそうに,甲板の上からこの雲を眺めたことでしょう。
 

  この雲を描いた傑作がフェルメールの「デルフトの眺望」だと思っています。デルフトの街の上にかかる雲は,やはり下の面が濡れており,今にも泣き出しそうな表情をしています。私はこの名画の長所のひとつはここにあると思っているのですが,どうもそうではないらしいのです。
   昨年,この名画のあるマウリッツ・ハイス美術館を訪ねた折,ミュージアムショップでこの絵のポスターを買うことにしました。大と小があり,はじめは小を買って玄関先に飾ろうと思っていたのですが,どうも様子がおかしい。
   そこで,大と小を比べてみてその原因がすぐに分かりました。小は,大の完全縮小ではなく,大の輪郭をカットしたものだったのです。そのため,雲の部分の多くがカットされており,私がオランダらしいと思っている黒く雨を含んだ部分はまったくなかったのです。
   つまり,オランダ人にとってこの雲は,あまりにも日常的過ぎるのか,あるいは,にわか雨をもたらすだけの厄介者ということなのかもしれません。しかし,だからこそ,そこに目をつけたフェルメールはすばらしいと思うのは,私の贔屓目が過ぎるのでしょうか。
 
 
    そして,これが現在のデルフトの様子です。フェルメールが描いた風景とはまったく構図は違いますが,デルフト工科大学というこの国,あるいはヨーロッパを代表するハイテク大学の近くに,このような風景が静かにたたずんでいる。これもオランダ,そしてデルフトらしい風景なのです。
 
 
 
 
 
 

2013年6月5日水曜日

簿記勉強会(答案練習会)

   簿記勉強会はラストスパートを迎えました。今日は、2級・3級合同で、2時間かけての答案練習会です。みんなあともう少しです。がんばりましょう。

 

2013年5月31日金曜日

思い出の先生方(須田先生編番外その3)


    531日,今日は須田先生が亡くなって2年,3回忌の日である。平成23年のこの日の朝,先生は逝かれた。先生への追悼の意味を込めて,久しぶりに思い出話を記したい。
昨年末のことである。その前から延び延びになっていたのだが,須田先生の蔵書を分けていただくために,先生とお付き合いの会った大学の同僚のI先生とともに,奥様の和歌山の実家にお邪魔することとなった。その途中,昨秋に納骨され,できたばかりの先生のお墓に始めてお参りをさせていただいた。大阪湾を臨む絶好のロケーションにある広大な霊園で,先生もこの景色は気に入っておられるだろうと思った。
   まったく偶然なのだが,この霊園には私の父方の墓地もあり,ついでといっては罰があたるのだが,お参りをしようと思った。I先生には車で待っていてもらい,すぐに済ませるつもりが,(言い訳にもならないけれど)久しぶりだったのでなかなか見つからず,小雪降る中,結構往生した。まったく親不孝ものだと思った。
   その後,国道26号線を南下し,予定通りお昼過ぎに和歌山に到着した。奥様とご親族の皆さんに温かく迎えていただき,先生の思い出話に花が咲いた。そして,いよいよ倉庫の2階にある蔵書を見せていただくこととなった。すでに,先生の後継者のS先生やT先生などが見られた後ということもあり,先生の最近の関心事の本は少なかったが,先生が若い頃から買い集められていた名著が結構残っており,古い物好きの私には宝物のようなものであった。また,私が卒論を書くときにお借りした文献もあって,懐かしさも一入であった。
   そんな中,奥様がコレコレと指差した文献は,なんと先生の一橋大学大学院時代の修士論文であった。手書きでびっしりと書かれた重厚なもので,先生の苦闘の後がよく現れていた。奥様にこれはどうかお手許で保管をとお願いした。
   ここで「苦闘」といったのは,先生の一橋時代の指導教官であった中村忠先生の言葉を思い出したからだ。「須田は修士を3年やった。書けなかったんだな」と中村先生はしみじみとおっしゃり,その後,須田先生が大変努力をされ大成されたことを「よく頑張ったよ」と結ばれた。その言葉の質感から私は,中村先生にとって須田先生が,本当にかわいい弟子なのだなと確信した。お二人は今,天国でお酒を飲みながら何を語らっているのだろうか。
   ところで,修士課程の修了に3年かかった会計研究者の中には大成された方が多いのではないかと思う。大阪市立大学での私の先生の先生であったY先生,神戸大学での私の先生の先生であったT先生はともに通常よりも1年長く修士課程に在籍した。Y先生は後に,そのことをエッセイで回想されているから間違いなかろう。実は私も修士課程を3年やった。といっても,私の場合は,大先生となるまでの苦闘といったわけでもなく,ただ博士後期課程への進学に失敗したため仕方なくといった情けない理由であったが。
それにしてもあの頃はしんどかったなと思いながら作業をしていると,なんとそこに私の修士論文が現れた。大阪市立大学大学院で書いたものの写しを須田先生にお送りしたが,それを残してくださっていたようである。こんなところでひょっこり現れたのは,どうも須田先生のいたずらのような気がしてありがたかったが,これは他人の目に触れてはいけないと思い,そっとダンボールの中に収めた。結局,私がダンボール6箱,I先生が2箱,合計すれば100冊ほどをいただくことになった。
    作業が終わり,宅急便の集荷が来るまでの間,再び先生の思い出話に花が咲いた。須田先生は自動車の免許を,京都産業大学の教員になってから取得し,実は車の運転があまりお上手でなかったとか,笑いのベースがどこか関西人と違ってずれていたとか,ご家族しか知らないお話をいろいろお聞かせいただいた。
   そうか,私は学生時代何度か先生のお車に乗せてもらったが,結構危なかったんだと今さらながらに肝を冷やし,そういえば,同乗していただいた時にはいろいろ助手席で運転のアドバイスをいただいたが,あれはなんだったのかと思い返した。また,ゼミ合宿の懇親会などでは,たしかにご自身の発したギャグに対して一人で受けに入っていたなと,にこやかに語る先生の姿を懐かしく思った。
   人に歴史ありという。先生の蔵書を見るときに,その言葉が正しいことを確信する。実証的会計学研究で学界をリードした先生ではあるが,院生時代には非常に多くの古典を読まれていたということが分かる。それは一橋大学の指導方針であったのだと思うのだが,先生ご自身にも,研究の基礎として古典を大事にしたいというお気持ちがあったのではないか。
   一橋大学のある国立駅近く,線路沿いにあるN書店という古本屋さんが先生の行きつけで,私も紹介していただきアメリカ近代会計学の立役者W. A. Patonの本などを購入したことがある。先生はアルバイトで得た資金で多くの古典を購入されていたのだろう。
    須田先生の主著は,『財務会計の機能 ‐理論と実証‐』(2000年,白桃書房)である。この本について私は,ある雑誌に,「最近の研究書の多くが,序章・結章をおくことが少ないなか,同書が,あえて序章から説き起こし,都合15章の長い道のりを経て,財務会計制度のあり方を考察した結章へと展開・結実していくさまは,(会計学に-筆者追加)『閉塞感』をおぼえた日から,実証研究を踏まえた財務会計制度研究という新たな活路を切り開かれるまでの,先生の苦闘の跡といってよい」(『会計人コース』20031月)と評したことがある。今読み返してもその思いは変わらない。
   いつの日か同書も古典と呼ばれる日が来るだろう。これからの会計学徒にも読み継がれるべき名著だと,私は確信している。

2013年5月30日木曜日

「学食で朝食を」

   むかし,「ティファニーで朝食を」という映画がありましたが,うちの大学では「学食で朝食を」を目指しています。ちょっとおしゃれかも?!
   8号館3階LIBREでは毎朝8時半から「あさイチ定食100円」を提供してくれています。やはり朝ご飯はしっかり食べないと元気が出ませんから,ゼミ生の皆さん,とくに下宿生で朝食を作るのが億劫な方はぜひ利用してください。なお,けっしてLIBREの回しものではありません。
   ただし,教職員は200円みたいです。申し訳なさそうに下の方に小さく書いてありますね。というより,見落としてしまうわ,これ。危うく恥をかくとこでした。
   しかし,もう少し早くなりませんかね。1時間目の授業の前ではちょっと窮屈です。まあ,毎朝4時過ぎに朝飯を食べている私にとってこの時間は,すでに昼飯感覚ですが。

2013年5月18日土曜日

ブログの再開について

このブログの更新も本当に久しぶりになってしまいました。理由の第一はなんといってもFacebookです。ゼミの情報もそちらで流すことが多くなり,こちらは開店休業状態でした。しかし,Facebookはアカウントをもっている方にしか見ることができませんので,意外とゼミへの参加希望者には不便をかけているようです。そこで,近くゼミのホームページを全面的に改装し,そこから情報発信をしていくと本来の形に戻すことにしました。そして,このブログもボチボチ再開しますので,またお立ち寄りください。
橋本

2012年7月2日月曜日

思い出の先生方(須田先生編番外その2)

   須田一幸先生の一橋大学大学院時代からの畏友であり,私の尊敬する会計史学者のN先生がこのブログのことをFacebookで話題にしてくださった。感謝である。そこでというわけでもないが,須田先生について今少し書き加えたい。
   私は,大学教師になってすでに17年目に入ったが,いまだに須田先生のような授業を一度も行なったことがない。かつて『会計人コース』にも書いたことであるが,須田先生の授業は準備万端,本当に隙がなく緻密で,しかも内容が最新で面白いのだから無敵であった。恥ずかしながら私は,そういう授業をまだできないでいるということだ。
  私が大学院に進学しようと考え出した頃の話である。愚問だったかも知れないが,私は須田先生に「研究と教育の割合はどれくらいですか」と聞いた。「73だな」とのお答えに,やはり研究が主かと思ったが,「教育が7で研究が3だな」と言葉を重ねられた。
  その心は,「橋本君ね。私立大学では教育が主なんだよ。僕らのお給料もさ,教育でもらっていることを忘れちゃダメだね」とのことであった。なるほどと思いつつ,なんとなく不思議な感じを受けた。
   今考えるとその頃(1990年代前後)の先生は,ロチェスター大学での留学を終え,いよいよ実証会計学の須田として学界の表舞台に立ち始め,このすぐ後には日本会計研究学会賞も受賞された頃である。当然研究が第一という答えが返ってくるものと考えていたから意外だったのである。それは実際に教育熱心だった先生だからこそ説得力があった。
先生は,秋田湯沢の老舗の呉服屋さんのご長男だったので,余裕のある院生生活をおくられたと思われがちだが,そうでもなかったようだ。院生時代からたくさんの洋書を購入され,その購入費のために結構アルバイトもされ,そのアルバイトの一つが,簿記や会計を経営コンサルタントの方に教えることであった。
   コンサルに簿記を教えるというのも変わった仕事だが,先生はそこで出会われたHさんとも,その後長くお付き合いをされていた。Hさんは先生より2回り近く年上であったと思うが非常にお元気で,年に1度は先生の学部ゼミに顔を出し,講演をしておられた。
   Hさんのご趣味というか関心は粉飾決算で,実務の中でそれを発見し,われわれに披露するのを無常の喜びとされていた。会計は実践だよという趣旨だが,非常に面白くて,われわれはこの特別講義を楽しみにしていた。
  今思えばきっとその内容は先生の理想とするところとは違ったかもしれないが,自分の考えと違っても学生のためになればと,そういう機会を設けてくれたのだろう。そして,この講演にかかる費用はすべて先生のポケットマネーであった。
   私は母校京都産業大学に帰ってきて3年目の夏を迎えようとしている。あちらこちらでぼやくようでふがいないのだけれど,結構忙しく,どれもこれも中途半端な状態になっている。何をやっても手抜きをせずに一生懸命にやっていた先生から見れば,なんと情けのないことと思われるかもしれない。
   須田先生の師匠で一橋大学名誉教授であった故 中村忠先生は,どこかで「一流の研究者になろうと思わなかったが,教師としては合格点をもらえるだろう」いう趣旨のことをで書かれていた。そして,研究者としても教師としても超一流になられた。須田先生も同じ道を歩んだのである。
   私はもう,研究者としては,超どころか,ただの一流にもなれないだろうと観念している。せめて二流にはなりたいなとは,志の低いことである。ただ私立大学に勤めるものとして,教師としてはもう少し頑張ってみたいなと思っている。
停年まであと17年。今がちょうど大学教員としての折り返しの時期である。ゼミ生とわいわいやりながら停年を迎えることができればよいなと思っている。そして,さらに願わくは,あと1冊だけ,自分に納得いく本が書ければ最高だと思うのだが,こういうのを望蜀というのであろう。また,なんと小さいと須田先生に笑われそうであるが。
暑い夏,学会シーズンがやってくる。先日,先生の奥様が送ってくださった先生の形見のブレザーを着て,今年の夏も乗り切りたい。

オランダ・ワンダーランド(ミッフィーはメイド・インチャイナ?)

    いよいよフェルメールが日本にやってきて,予想通り初日から大盛況のようですね。いろいろフェルメールがらみの本も出ているようで,『ミッフィーとフェルメールさん』なんてのもあるようですね。
    このミッフィーというウサギのキャラクターがオランダ生まれというのは,もう結構有名かもしれません。本名(?)はNijntje Pluis(ナインチェ・プラウス)。オランダ中部のユトレヒトという街が生まれ故郷です。ここに住んでいる絵本作家ディック・ブルナーが生み出した世界的なアイドルですね。
   オランダ留学時代のある日,そのミッフィの公式専門店がアムステルダムのはずれにあると聞き,ここでしか手に入らないものを買って帰って子供たちに自慢してやろうと思って行きました。 「日本で売っていないものはどれ?」「わかりません」。なんと不親切な!気を取り直して,「じゃオランダで作っているのはどれ?」「わかりません」。馬鹿にしているのか!?気を取り直して「なんで?」「だって中国製だから」。なんと。道理で日本で見たようなものばかりだと思ったはと妙に感心しました。
    たしかに,説明書きはオランダ語だけれど,品自体はトイザらス と変わりません。中国恐るべし。どこでも中国製ですね。ちなみ中国語でミッフィーは米飛と書くそうです。日本製の車も海外で作る時代で,トヨタが国内生産にこだわるのがニュースになるのですから,それが時代の流れなのかもしれませんが,どこか空虚さを感じるのは,私だけなのでしょうか。